虐殺オリンピックとも言われていた北京五輪が8月24日に閉幕した。五輪会期中は五輪について書く場合はなるべくスポーツの範疇でと思っていた。スポーツを見るという視点でスポーツを語るのなら、スポーツの範疇で五輪のことを書かなればならないからだ。スポーツを批評する行為が成立する前提にはこの鉄則が必要になり、スポーツをスポーツの範疇で語るという原則があるから、それを前提に批評行為が成り立つ。
しかし、五輪はスポーツの祭典であるにもかかわらず、北京五輪の聖火リレーが示したように、政治とは不可分のもので、時として政治の舞台にもなる。特にワールドカップ(通常ワールドカップとはサッカーW杯を指す)や、フォーミュラ1(F1GP)、五輪のような世界的なビッグイベントでは、その傾向が顕著になる。
それはスポーツが決して政治と切り離せないものであるという一面を示しているが、問題は、それらビッグイベントの出来事や何かの現象を見るときに、これはスポーツの範疇の問題なのか、あるいは政治の範疇の問題なのかという、それぞれのケースでの判断が重要になるということだ。
▼夜間の抗議活動も即刻検挙された。
つまり、この事象はスポーツの領域のものなのか、政治の領域のものなのかという判断を下しながら、論じたり報道する必要がある。それができないと、スポーツと政治をゴチャゴチャにする誤った見解が大手を振るうことになる。
特に何事にもイデオロギーが優先する全体主義国家ではスポーツに忍び寄る政治主義がスポーツや文化の敵となる。その典型的な例が今回の北京五輪だった。
IOCがスポーツの魂を全体主義の虐殺者に売り渡したことが北京五輪の本質だったのだから、聖火リレーから大きな抗議に世界中で曝されたのは必然だった。
▼北京五輪を象徴するマラソンのシーン
そんな時によりによってダイヤモンド社が運営する情報サイト、「ダイヤモンドオンライン」が谷口源太郎氏の古色蒼然としたコラム、星野ジャパン人気に見る「偏狭ナショナリズム」という脅威を掲載した。谷口氏の論説への反論は日刊スポーツ連載コラムの最終回、「宴の後から見えた透視図」に書いたので、そこで書ききれなかったことを今回書く。
それは、谷口氏のコラムが、現在の日本のメディア状況を表すという点で非常に象徴的だったことだ。なぜなら、谷口氏のような前時代的な思考に囚われた人がまだいるのかという驚きより、平然とこの論説を掲載するメディアが存在することの方が大きな意味があるからだ。つまり、谷口氏のコラムの内容は、今時の高校生でもまともな子供なら完全に論破できる程度のものだが、それを掲載するメディアの存在はファンタジーではない。その厳然とした事実が問題なのである。
そういう意味でも、北京五輪で気づいたもう一つ重要なことは、NHKがこれほど支那共産党の統制下にあることを、何ら恥じることなくあからさまにしたということだ。アサヒ新聞やテレビ朝日でも、ガス抜きとアリバイ証明のためにチベット問題やウイグル問題、それに支那の超格差社会と経済不安を取り上げていたが、NHKには全くその視点がなかった。
「中国5000年の歴史」を誉めそやすだけのメディアにNHKは落ちぶれたのだが、いつから5000年になったのか? 韓国も日韓ワールドカップの時に開会式で金大中大統領が「5000年の歴史」と言って失笑を買っていたが、さすが同じ文明圏だ。そもそも「中国」という言葉を中華民国、中華人民共和国の略称と考えても、歴史は60〜100年の歴史である。支那の歴史というなら、4000年が妥当である。
6月4日のエントリー、「6月4日は天安門事件記念日。NHKは南京虐殺を否定していた。」で指摘したとおり、NHKは南京虐殺を否定していた(笑)。それだけのまともな知性があるなら(もちろん皮肉)、なぜ、これほどまでに北京の奴隷としてCCTV日本支局のような報道しかできなかったのであろうか?
「外国メディア 中国の現状座視のIOCへ不満」という記事も出るには出たが、日本のメディアは何をしていたのだろうか?
▼開会式の中華自爆。漢民族が他の民族を抑圧・支配することを表現してしまった。
そもそも、メディアの北京五輪批判は産経以外全部が腰が引けていた。米国ではワシントンポストが3月26日に書いた「Olympic Shame」(五輪の恥)という強烈な社説が先駆けだった。リベラル紙の面目躍如という論説で、チベット、ウイグル、ダルフールに言及しながら、支那の現在の体制ではスポーツをスポーツとして成立させられないのではないか、と書いている。
最近、日本でもリベラルという言葉を使う人も増えたが、日本に真のリベラル勢力はいない。もちろん、リベラルメディアなど皆無である。何度か言及しているが、日本にリベラルという概念が定着する時は、今保守と呼ばれている勢力の一部が中心となるであろう。リベラル、進歩主義、革新という概念が嘘だったことが明らかになって20年近く経つのだから、保守という概念も再構築されなければならないし、日本的なリベラルは現在の言葉で表現すれば、恐らくリベラル保守とでも言えるのではないか。
ところで、NHKの天安門事件と南京に関連して笑い話を。多くの読者の方からいつも貴重な情報やご意見など有益なメールを頂いているが、その中で6月4日のエントリーに脊髄反射して、えらく興奮している人間がいるとの情報があった。
ブログで私を誹謗中傷しているとのことだが、このエントリーにどう反応するのか興味がある。どうせなら、そんな人もここへトラックバックするなり、コメント欄に書き込めばいいのに、とお返事を出したら、その種の人間は同じ趣味の人間が集まる、まともなコメントもトラックバックもできない閉鎖的なネット空間で鬱憤を晴らしているだけとのこと。彼の話では、その種の人は「2ちゃんねる」以下と言ったら「2ちゃんねらー」に失礼だが、完全に「2ちゃんねらー」以下の存在で、ネット蛆虫と呼ぶそうな。
▼時折、名作「The Fake of Nanking」を見直すことも重要。
さて、北京五輪で誇れること。ソフトボールのピッチャー、上野由岐子が、「ESPN」で北京五輪参加の全選手を対象とした批評で、最高の女性選手に選出されている。北京五輪の全女性選手の中で最高のアスリートという評価なのだ。これは、まさにスポーツをスポーツとして評価するという基準で与えられた、最高の栄誉である。伝統あるスポーツ専門テレビ局のESPNの評価なのだから誇りにするべき。上野選手に心からおめでとう!と言いたい。
▼北京五輪ボイコットを呼びかける動画。今年になって世界中で非常に多くの人が見た。
▼Silent Protest at Zenkoji - Free Tibet TAMAGAWABOAT氏の名作だが、この種の情報の伝播が、メディアの新しいパラダイムを形成するはずだ。
※ブログ下部に設置していた「FRANCE24」英語放送の画面は5月23日のエントリーページに設置しています。日本のテレビだけではダメだと思っている方は、クリックすると別ウインドウが開きます。下部にある画面をご覧下さい。IEの場合、音量は右クリックで調整して下さい。ファイヤーフォックスだとコントローラーがあります。
※日刊スポーツコムに連載していた「北京五輪の透視図」はここで。
最後にコラム連載中の6月9日に読者から頂いたメールをご紹介する。
初めてメールします。普段は金融担当の証券アナリストをしています。
日刊スポーツホームページのコラム「四川大地震で何かが変わったのか」を読みました。ハッとさせられました。そう。チベットの記事が消えている。ダライラマの演説なんてあったことも報道されていない。
仕事がら海外出張に行くのですが、05年秋にロンドンで面白い経験をしたことを思い出しました。ちょうど日本は郵政民営化問題さなかの衆議院選挙、米国はハリケーン・カトリーナ災害の頃でした。ホテルでTVを見ていると、CNNはハリケーンの報道ばかりで「世界的な災害で世界は助けるべきだ」と叫び、NHKは自民党大勝を繰り返し報道、地元BCCはクリケットの試合(5日間かかるらしいです)を一日中報道していました。
その中で欧米には悪名高いアルジャジーラだけが台風も日本の選挙もその他のニュースも均等に報道していました。各国の報道が偏っていることを再確認する中で、あるべき報道の姿をアルジャジーラに見つけて、それがアルジャジーラであることに意外感(真の姿も知らなかったですし)を持ちつつホッとしたことを覚えています。
日本の報道は米国ほどではないですが、やすきに流れます。仕事がら各新聞・TVの経済部の記者とは付き合いがありますが、少なくとも経済部記者は自分の意見に偏った記事を書く傾向がありますが、勉強不足の記者が多く視野が狭いために記事が偏ったり、ときにデタラメになる。
チベット記事が消えたことの背景も視聴率・世間の話題を狙いたくなる事情以外にも、骨のある、というかキチンとした知識と見解、報道者の心得などがしっかりした記者やそれを許す上層部などがいないことも背景にある気がします。
西村さんのホームページ、初めて来てまだほとんど読んでません。もしかすると私の父同様、権力あるいは権力により事実を捻じ曲げる日本や中国の政治の世界に対する嫌悪感が強く、ある意味ニュートラルじゃないかもしれませんね。でも世間と報道が迎合的なら多少行き過ぎぐらいの報道姿勢があってよいと思います。
少なくとも視聴者・読者の判断材料の一つになりますから。いつも読むほど時間は無いですが、たまに読ませていただきます。いい視点をありがとうございました。