法王のインドへの亡命の決断を促したのは、側近たちの進言や59年当時、すでにカルカッタにいたタクツェル・リンポチェからの長文の手紙だったと言われている。
法王はかつてこう述懐した。
▼スコーセッジの名画「クンドゥン」予告編
「われわれの不幸な立場が認識されるにつれ、幾人かが、とくに長兄のタクツェル・リンポチェが、カルカッタから長文の手紙を寄越し、一刻も早くインドへ脱出するよう要請してきた。彼らはチベットに残された唯一の道は、同盟者を見つけ支那と戦うことでしかないと主張した」
そして、弱冠24歳だったダライ・ラマ法王は、多くのチベット国民をチベットに 残したままインドへ亡命することと一刻も早いチベットの民族自決とのジレンマに苦しんだ。
▼「クンドゥン」より。毛沢東との会見で「宗教は毒なんだから」と言われる。そして、虐殺の悪夢
「わたしは完全にジレンマに陥っていた。もし兄の手紙に従えば、外国の支援が得られる可能性が見えていた。だが、チベット国民はこれをどう受け取るだろうか? 支那代表団と会いもせず、その前に亡命すべきだろうか? もし亡命したら、新しい同盟者たちはどこまでもわれわれを支持し続けてくれるだろうか?
わたしはこれらのことを考えに考え、どうしても二つの問題にぶち当たってしまうのであった」
「クンドゥン」より。インド亡命を果たしたエンディング。フィリップ・グラスの美しい音楽とスコーセッジの映像が美事なコラボを。▼
結局、亡命後も法王やチベット国民は長い苦しみから解放されることはなかった。だが、毛沢東死後、事態が明るい兆しを見せたこともあった。ケ小平が支那共産党で権力掌握を果たし、文化大革命のツケを必死に取り返そうとして、改革開放の大博打を打ったときだ。
1979年、支那で幽閉されていたパンチェン・ラマ13世が釈放され、ダライ・ラマやチベット亡命政府の要人の帰国を呼びかける声明を発表した。そのとき、今回来日したギャロ・トゥンドゥップが重要な役割を果たした。当時をダライ・ラマ法王はこう振り返る。
「この一週間後、わたしが宗教会議に出席していたカンプールに、突然兄のギャロ・トゥンドゥップが訪ねてきた。驚いたことに、彼は、香港(※当時、トゥンドゥップは香港在住)の信用できる古い友人から、新華社が兄と連絡を取りたがっていると言われた。そして、ケ小平の特使と会い、支那指導者がダライ・ラマとの話し合いを開始したがっている。その善意の印としてケ小平はギャロ・トゥンドゥップを北京に招待し、会談をしたいと言っている、と。しかし、兄はわたしの意見を先に聞きたいからとその申し出を断った、と言うのである」
ギャロ・トゥンドゥップはその後、北京を訪れケ小平と会見した。その結果、基本的に現在の路線である「チベットの高度な自治を北京に求める」というチベット亡命政府の枠組みが出来上がったと言っていいだろう。
しかし、問題はいつも約束や信義を踏みにじる支那共産党の悪魔の所業だった。ケ小平のチベットへの融和策発表も、西側諸国の支援や援助を取り付けるためにポーズに過ぎなかった。もちろん、この局面でも日本は圧倒的に支那を援助し、ケ小平の <改革開放> を巨額のODAで支えていった。
そして、度重なる支那の圧制、弾圧、虐殺、人権蹂躙に我慢できなくなったチベット人たちが88年から蜂起し、翌年「チベット自治区」共産党書記長に就任した胡錦濤による、激しい弾圧に踏み潰されて行ったのだ。異論もあるだろうが、日本が間接的にチベット弾圧を支援したとも言える。
そんなチベットの長い苦難の歴史をダライ・ラマ法王と共に見つめてきたギャロ・トゥンドゥップ閣下が、7月30日に永田町の憲政会館で講演を行う。この日は、「チベット自由人権日本100人委員会」の設立記念シンポジウムが、午後6時半から行われるからだ。
歴史的なギャロ・トゥンドゥップ閣下の講演。多くの人に詰めかけてもらいたい。入場料は1000円だ。
チベット100人委員会は、米国、英国での活動が有名だ。リチャード・ギアも「チベット米国100人委員会」のメンバーである。
いよいよ、支那のチベット侵略が始まった。アメリカの大統領に手紙を書く決心をしたダライ・ラマ14世。この直前のシーンで、インドは? イギリスは? 手を差し伸べてくれないのか、とダライ・ラマが側近に訊ねるシーンがあるが、大東亜戦争の日本の敗北がなかったのなら、チベットの悲劇は起きなかったことを再確認させられる。▼
※シンポジウムの詳細は次のエントリーで
※「FRANCE24」英語放送の画面を一時的にはずすことを考えています。評判が良くないので。
※ブログ最下部に「France24」の英語放送の画面が設置してあり、いきなり英語のアナウンスが流れます。うるさい方は音量を調節して下さい。IEの場合は音量コントローラーがないので画面を右クリックして下さい。
西村さんが仰る通りだと思います。日本人として、チベット内地で愛国教育を受けさせられ、訴えたいことがあってもそれが死に直結するチベット人に変わって声をあげる事が償いだと思います。7・30の講演会は仕事があり、長野からは間に合いませんので、TBにあった米流時評さんが紹介してくださったCFTに早速登録し、五輪開会式の夜はキャンドルを灯しチベットの自由を祈ります。ところでタシィさんがダラムサラでダライ・ラマ法王に謁見したと友人から聞いたのですがそうであったら心から「よかったねぇ」とタシィさんに言ってあげたい。西村さんに何か情報は入っているでしょうか?