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2005年07月04日

天才の証拠。三島由紀夫、24歳の戯曲「燈台」。

mishuma_p.gif7月3日、新宿で久しぶりに芝居を観た。三島戯曲の上演をこの10年続けている向陽舎の公演で、「燈台」が上演された。宮崎正弘氏と某N氏のご好意で観劇させていただいた。向陽舎の久保亜津子さんは早稲田の日文出身で文学座を経て、96年に向陽舎を旗揚げした。三島戯曲を演じるために旗揚げしたようなものだが、以前から「近代能楽集」の連続公演に注目していた。
「燈台」は三島24歳の若書きの作品で、恐らく「仮面の告白」を苦労して書き上げてから、一気にリラックスして書いた戯曲だと思う。これまで上演されたことがあったのだろうか? その分、若き天才の本音が生で表出する部分がある。と言っても、決して未熟な作品ではない。終戦後わずか4年の混乱した世相を背景に、黒川家の4人家族が旅行先の大島のホテルで過ごす春の一夜が舞台となる。復員後、学生に戻った昇が継母のいさ子を恋慕するのだが、そのシチュエイションはじょじょに観る者に分かるように工夫されている。昇の妹、正子はミッションスクールの学生、父親の祐吉は戦後の混乱期に電気製品を輸出して大儲けをしている。病死した先妻の後に後妻となったいさ子は恋愛結婚だろう。

「僕は何もかも終わったような気がしている。それでいて、明日だけがあるような気がする」(注:全集で戯曲未確認)という昇の台詞は、そのまま24歳の三島由紀夫の正直な気持ちだろう。そんな昇がいさ子を密かに恋慕し、いさ子も昇を受け入れるスリリングな官能を自覚する。妹の正子は純潔を象徴しているが、友人の千葉順子に誘われて行った部屋でキスの罰ゲームに驚いて逃げ帰ってくる。そんな家族の現実を一切認識できず、深酒して眠り続けていた父の祐吉。この戯曲が書かれた昭和24年が、まだ占領下だったという事実も重みを持ってくる。軸を失って解体する家族4人に、戦後日本がシンボリックに投影されているからだ。解体しつつある日本を自覚できない金儲け至上主義の父、祐吉。後妻のいさ子は有閑マダム。「明日だけがあるような気がする」復員学生の昇は、ニート予備軍。最後に妹の正子は自分を燈台のようだと言い切る。私だけが、眠らずにいつ沈むかしれないこの家族を、燈台のように見守っていなければならない、と自分の不幸を恨む台詞で劇は終わる。だが、燈台の役目を担った正子でも、60年近くたてば疲れ果てる。燈台の電球も壊れ、モーターも油切れするだろう。

戦後4年に書かれた「燈台」のテーマが、十分現在の日本を言い当てているということは、戦後60年たっても、日本は何も変わっていないということである。考えてみれば、昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効で独立後、占領基本法である憲法と教育基本法すら改正できない日本人の自堕落さは、この戯曲の祐吉の楽天的な悪意のない無定見と無自覚をそのままなぞったものだった。
一緒に観劇したN氏から3日の夜に頂いた素晴らしい劇評のメールを転載する。
ばらばらに砕け散ろうとする家族の中で、それを少しも気付いていない暢気な父、後妻としてその家庭に入った有閑婦人、後妻に心囚われる出征帰りの息子、友達の家で破廉恥な目に遭う情緒不安定の娘、その4人が織り成す一夜のドラマ。大団円で娘が、私だけが、眠らずに何時沈むかしれないこの家族を、燈台のように見守っていなければいけないんだわ!と不平等な自分の不幸を恨む科白で終わります。台湾帰りの息子はアパシーに陥り、男に相手にされないバージンの娘は情緒不安定、後妻は義理の息子と不倫を犯そうとする程閑を持て余し、仕事人間の父親は酒とシャンソンとジルバに享楽し、と現代の若者と奥様・父親族の有り様に通底していて聊かも古びていません。 

舵を失って波間を彷徨う日本丸、周辺国が起こす荒波にいままでの安逸は失われ、私だけ不幸だと嘆き叫ぶノンシャランな日本人。今の日本への優れた風刺劇に巧まずなっているのです。21世紀劈頭の日本の世相を見事なまでに見通した三島の眼力を感じずにはいられません。と、云うより戦後60年経っても、日本は少しも変っていないと観ずるべきなのでしょう。
父が後妻とデュエットする時に掛るシャンソンはかなり古い時代物の録音で懐かしい気持にさせてくれ、父と娘が踊るシーンで掛るジャズは心地佳い気分にしてくれました。しかしこの一幕物の劇を観るものは、知らず知らず、登場する家族のカウンター・パートに自分を置き替えて、身に詰まされる仕掛けが密かに用意されています。三島劇独特の「毒」はこの習作にも組み込まれています。各演者は好演していました。特に娘役は、思春期の焦燥をよく演じていました。
そう言えば、ホリプロプロデュースの蜷川演出の「近代能楽集」が7月28日からニューヨークのリンカーンセンターで公演を行う。現在、この公演は全国ツアーの最中だが、余りに料金が高すぎる。76年に蜷川幸雄が始めて三島戯曲に取り組んだ、平幹二郎の「卒塔婆小町」を観たが、それほど高くなかったような記憶がある。泉鏡花の「天守物語」と一緒だったような気がする。劇評をどこかに書いていたはずだ。
なお、「燈台」の公演は5日まで。14:00の回しかない。

「拉致----横田めぐみ物語」のクリス・シェリダン監督からメールが来た。元気そうだが、編集で連日徹夜を続けているそうだ。完成が本当に待ち遠しい。
posted by Kohyu Nishimura at 23:59 | Comment(4) | TrackBack(0)
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この記事へのコメント
確かに小野田寛郎氏は日頃から日本人の
精神的退廃を指摘されてますね。
戦争の痛手は日本人の自信を奪い、近年
では世知辛さが増し義理人情が廃れている。

只、近年の精神退廃的なものは日本に限らず
所謂先進国に共通する悩みだと思いますね。経済的に豊かになったぶん、人と人が助け合
うといった概念が乏しくなってしまってます。
(だから産経新聞でプータン王国の話題が
記事になる。)
Posted by abusan at 2005年07月05日 05:12
久しぶりに書き込みますが、「拉致--横田めぐみ物語」の完成が楽しみです。外国人がどう捉えるのか興味があるんです。西村さんの報告を読んでいると、少なくとも否定的にはならないと思います。日本人にも期待したいですね。
Posted by HIDE at 2005年07月05日 12:42
蜷川演出の「近代能楽集」、料金が高く、しかもあまり大きいハコで公演をできないので観ることができず口惜しい思いをしています。
藤原竜也クンは近代能楽集にピッタリの役者さんですけど、この人がミーハー人気(?)もある人なので、チケットの取り難さに拍車をかけていて、個人的に泣いています。

ところで、戦後60年経って、未だこんな状態の日本は情けないとも言えますが、存在感を持つためにまず経済の発展に力を入れた選択も日本人らしくて好きです。

国防は大切なことですけど、一国だけで国を守ろうとすると、孤立しがちです。
どこかの国と共同で国防をしなくてはならないのだとしたら、貧しく、技術もなく、協調性のない国であるよりも、豊かで技術力があり協調性のある国であるほうが、よりマシな国と同盟できそうな気がします。

60年は長い期間のように感じますが、敗戦という傷を癒すために必要な期間だったと思います。
急激な変化は気分的にはすっきりしますが、どこかに無理が生じるような気もします。

今は、マスメディアがひどい状態なので、不安ですけれど、マスメディアの偏向を鵜呑みにするほど日本人は愚かではないと信じています。

NHKはじめマスコミは、韓流に象徴されるように、偏向報道をやりすぎたと思います。もう限界ではないでしょうか。
いくら暢気な日本人でも目覚めると思います。
なにしろ暢気な私でさえも目覚めたくらいですから・・・
日本人は目覚めて問題点が見えるとサクサク行動しますから、大丈夫だと信じています。

ところで、郵政民営化法案が可決したので、古賀誠議員が党人権問題等調査会長などを辞任されるそうですね。嬉しいニュースです。

日本の夜明けは近そうです♪
Posted by 万里子 at 2005年07月05日 16:33
蜷川演出の近代能楽集は僕も見たいのですが、西村さんが書いているように高杉です。
それはそうと、古賀さんが人権擁護法案関連の調査会会長を辞任したって、本当ですか?
もし、そうならいいんですが・・・・
ソースはないでしょうか?
Posted by 万里子さま at 2005年07月06日 13:12
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